試験の性質

 なんか、体を動かすたびに全身に電気が走るような感覚があるのだが、なんなんだろうか。明日寝て起きるとそうでなくなっているとありがたいが。

 ところで、先週の火曜日にいつも夜中のホッケーの帰りに家まで送ってくれる奴と車中で話していた。 彼は、弁理士の資格を取ることを目指しており、火曜日から日曜日まで年次休暇を取って弁理士の試験勉強に没頭するそうな。偉いぜ。今の俺はそんなに没頭して勉強なんかできないからな(昔もだけど)。
 で、彼は弁理士と言う資格を取りたいのか?そうでもないらしい。聞いてみると彼の現在の業務は会社の特許の英訳、和訳そしてそれらの管理のようだ。これらの業務自体は今までの経験で問題なくできる業務であり、弁理士資格が必要な業務でなく、弁理士の試験を通る知識を持っていなくても問題なくできる業務だそうな。
 では、なぜ彼は弁理士を取ろうとしているのだろうか?彼が言うには、試しに弁理士の試験勉強をしてみて分かったそうだが、弁理士試験のための教科書などを読むと自分が経験で獲得した業務がなぜ会社にとって必要だったり、特許制度というものがなぜこの世に必要なのかといったまあおぼろげながら感じていた暗黙知的なことを明確に頭で整理でき、形式知にできるようになったというのだ。
 だから、彼は、弁理士を取るという事自身もまあ目的だそうだが、それ以上に弁理士を取る勉強をする過程で段階的に学べる特許などなどにまつわる知識を体系的に得ること、そしてマイルストン、動機付けとして試験を受けること、それの方が重要だということだそうな。また、もちろんこのような体系的な知識は、現在の業務でも例外的な事象が発生したときの考え方として使えるという意味でも決して業務に無駄ではないだろう。
 とか、そういう彼の話を聞いていて、これこそが「学問」とか「知識体系を学ぶ」と言うことだと思った。確かに現場で培う知識や経験は絶対に重要だろう。ただし、それを改めて先人たちがまとめたきた観点で一から学ぶこと。そうすることによって知識や経験やスキルの断片がつながる。これはそれ自身が楽しいだけではなく、最後に言ったようになにか例外的な自称が生じた場合は絶対にこのようなつながった知識が重要だと思う。 つまり、大学受験のようなbooleanな試験は別として、このような試験を受けるということはその合否より、それを受けようという過程で学ぶ事自身がもっとも重要なのだ。

 で、そうでない試験もある。たとえばTOEICだ。あれは、「現状の自分の英語の状態を定量的に示す事」が目的だ。つまり、TOEICの点数を上げるためにあわてて勉強するなどは根本的におかしいし、手段が目的と化している最も最悪な例である。

 そんなわけで、俺は来週TOEICを受けるのだが、勉強をしてはならない。 だからしない。とこれが言いたいためだけに長々書いてみた。
 一方、阪神のバースはこういったらしい。

「プロとは言い訳しないこと」