書評: 「デジタル革命時代における保険会社経営」

「どういった状況の顧客にも対応をするために、DXの戦略から戦術レベルまでを一通り様々な観点で把握したい」人にはお勧めの一冊

デジタル革命時代における保険会社経営

デジタル革命時代における保険会社経営

前置き

このところ、IT業界において「DX(デジタルトランスフォーメーション)」という言葉を耳にしない日はないといっても過言ではない。DXとは、Wikipediaによると「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させるという概念」ということである。 DXは、無視できない重要な概念である一方、非常に曖昧な概念である。

ゆえに、DXに対し、企業はどのような戦略を取るべきなのか、コンサルファームやSIer、ITベンダは何を顧客に提供すべきなのか悩むことになる。というのも、DXがあいまいな概念であるがゆえ、顧客企業自身が、DXで目指すゴールを描けていないことが多いためである。 さらにいえば、顧客企業の業種(銀行、保険、流通、製造など)や置かれている状況(市場の成長率や企業の競争力など)、相対する顧客の企業内での立場(CxO、情シス部門、ユーザ部門、"デジタル推進室"など)によって求められていることが大きく異なるためでもある。

このような背景ゆえ、私のようなSIerの中の人は、どういった状況の顧客に対しても一定の対応をするために、DXの戦略から戦術レベルまでを一通り様々な観点で把握している必要がある。本書はこの必要性に応えてくれる一冊である。タイトル通り生命保険会社を取り上げているが、内容の枠組みはどのような業種にも当てはまるものであり、保険はあくまで事例ととらえて読み進めることができる。

本書の構成

本書は、約150ページであり、a) DX戦略(1,2章)、b) DXの3つの革新(3,4,5章)、c) 革新を支えるIT基盤・組織能力(6章)で構成されている。

DX戦略

通常の戦略とDX戦略を分けるポイントは何であろうか? 本書は重要な観点として「業界構造のスタック化」と「市場に対する脱平均化視点」をあげている。

スタックとは、バリューチェーンを縦の構造とすると、横の構造を意味する。過去、金融業界はバリューチェーンによって垂直統合された企業(群)同士が、規模を価値の源として競争していたのであるが、今後、スタックによって企業機能が再整理され、そのレイヤーごとに異なる種類の競争・協働が生じるというのである。これは、コンピュータ産業を想起すればわかりやすい。つまり、DX後の世界では、企業はスタックのどこを自社の強みとし、どこを他企業と協働すれば競争に勝ちうるのかが戦略そのものであるということである。 一方、脱平均化とは、全体をマクロの視点から考え、大きな「マス」としてとらえるのではなく、より細かく分解してとらえることにより異なる特性やトレンドを発見することである。つまり、「市場に対する脱平均化視点」とは、市場に対するより細かくかつより適切なセグメンテーションと個々のセグメントに対する適切なアクションを実行した企業が勝つという考え方である。

1,2章は、この2つの観点を説明し、シナリオプランニング、DAI(Digital Acceleration Index)、エスノグラフィックリサーチ、デザインシンキングなどの手法を用いた施策の抽出・ロードマップ策定に至るコンサルティングの進め方について説明している。

3つの革新、IT基盤と組織能力

DXは曖昧な概念であると述べたが、本書によると、i) 商品/サービスモデルの革新お(3章)、ii) チャネル・顧客接点の革新(4章)、iii) オペレーションの革新(5章)に整理できるという。この整理は、この本のみの主張というより、一般的な主張のようであり*1、それほど斬新な主張ではないもの、生命保険業界という具体的なドメインで説明しているため非常に理解が進みやすい。さらに、このような革新に、どのようにAI・データ活用、オムニチャネル、デザインシンキング、RPAといったデジタル技術がどう貢献するのかも説明されておりわかりやすい。
個人的には、3章のデータ活用を用いた場合に生命保険の商品やサービスがどう変わっていくのかという議論の整理が、特に役に立ちそうに見えている。

ここまで示した、戦略や新しいビジネス革新を実現するためには、当然それを支えるIT基盤や組織のケイパビリティ醸成が必要である。 結局のところ、コンサルやSIerが最もお金を取れるのはこれらを請け負うことなので、その意味でこの議論は重要である。6章がこの議論に割かれている。IT基盤についていうと、To-Beのアーキテクチャにおける①顧客設定レイヤ、② プロセスと意思決定レイヤ、③ 基幹系システムレイヤ、④ セントラルデータレイヤ、⑤ クラウドベースインフラレイヤ、⑥ (レイヤ間)インテグレーション・セキュリティレイヤ、という分類は非常にわかりやすく、どの業界においてもデジタルアーキテクチャとして使いまわせそうである。 また、組織のケイパビリティ醸成については、IT-CMFを用いた組織能力のアセスメント手法と組織構造の再設計モデル(黒船モデル、出島モデル、宣教師モデル、遣欧使節モデル)というのが紹介されている。

こういう端的に整理されたアーキテクチャ、ツールやモデルを使う(使えるように見せる)のがコンサルの真骨頂と言えるが、確かにこういうのを紹介されると、まずはこれをベースに考えようとなる。こういった端的に整理された抽象的なartifactを作るというのはやはり彼らしかできないところだなと思うし、聞くところによるとこういうartifactを作るという行為にコンサルは相当お金をかけているらしい。

まとめ

総じて「どういった状況の顧客に対しても一定の対応をするために、DXの戦略から戦術レベルまでを一通り様々な観点で把握したい」人にはお勧めの一冊だと思っている。いまいちDXの進め方がわからない顧客やチームにおいて、本書にちりばめられているモデルやプロセスを念頭においてファシリテートすると、ある程度議論が進むだろう。ただ、全体が抽象的な記述と一事例で構成*2されているので、この本を読めば細部までやり切れるのかというとそういうわけにはいきそうにない。 また、IT基盤において、どうやって生命保険業界特有のお化けのようなレガシーシステムをDXに対応させていくのかというSIerが最も頭が痛い部分についてはほとんど触れられていない。 そういう欠点はあるものの、少なくとも買って損はない良書と思う。


# ほかにもこういうのもある。これは事例が弱い感じ

ヘルスケア産業のデジタル経営革命 破壊的変化を強みに変える次世代ビジネスモデルと最新戦略

ヘルスケア産業のデジタル経営革命 破壊的変化を強みに変える次世代ビジネスモデルと最新戦略

*1:IVIでは、MAKE, SELL, OPERATEに分類されている

*2:といっても5章あたりからは事例の具体がかなり弱い