逆「アルジャーノンに花束を」

 アルジャーノンに花束をは、ダニエルキースの代表作であることは誰も否定しないだろう。
 最近、私はそのちゃちい逆を経験した感じがする。時々書いているが、私は5年前から癲癇である。そのために、その発作を抑える薬を飲み続けている。最近発作の頻度が高かったので、強力な対処薬であるエクセグランをしばらく常飲していた。この副作用は人それぞれらしいが、私にとっては、もう通常生活が不可能になりそうな状況を生んでいた。
端的にいうと、以下のようなことである。

  • 一日中、徹夜明けのような眠気
  • 短期記憶がまったくなるなる。 朝やったことを昼に思い出せないなんてことは多数。

これらは、たぶん普通の人でもわかる感覚でないでないであろうか。前者は単に徹夜を続けてみればわかるし、後者は酒を飲みまくれば体験できる。
しかし、ひとつたぶん普通の人には理解できない状況になる。それは、「抽象的な概念がまったくわからなくなる」ということだ。この感覚はなかなか他人に伝えることは難しい。とにかく抽象的な議論をしても、それが日本語であることはわかるが、それに意味があるのだかなんだかもぜんぜん判断できないのである。ただ、いっている人が、常に信用してきた上司、同僚、後輩の場合、彼らが変なことをいうはずがないからいいことを言っているんだろうぐらいのものだ。ただ、抽象がわからないという状況がどんなものか、私が説明できるモデルで示してみよう。そのモデルというのは、「コンピュータがソースコードXML文書の構造をまず解釈して、構造化され抽象化されたコードや文字を、その実行系(JavaVMにしろマシン後に変換した機械語?このあたりの知識はないが)で解釈するという一連の過程として、人間の思考を表現する。」という方法である。この方法でいうと、構文解析器は残るが、解析された抽象モデルの処理系が完全に失われる感じである。このようなモデルでの説明が、脳医学などで正しいかどうかはわからない。茂木教授はアハハとしか言うかもしれない。しかし、私はそのモデルでの捉え方しかできないのででそうする。
 この、「抽象が捕らえられない」状況は、夏に倒れた8月、薬をデパゲンから、テグレトール、アレビアチン、エクセグランといろいろ変更した最近まで続いた感じである。もともと、まあ抽象的な議論はそんなに嫌いではなかった。しかし、その当時からだんだんついていけなくなって、いまデパゲンに戻して、ようやくわかってきた感じだ。そういう意味で、この体験を「逆・アルジャーノンに花束を現象」と呼んでいる
 上記のコンピュータの処理系のメタファで自分に生じた状況を説明したい。たとえば会議で抽象的な議論が展開するとする(よくある)。その議論のシンタックスとその構造はなんとなくわかる。たとえるならXML文字列をWell-formedなXMLと認識したり、プログラムをASTには変換できるイメージだ。だから、ある議論の中でどのような言葉が多く使われ、どのような言葉が頻出しているかはわかる。通常の人間の場合、それからじゃあ結局、この議論は何が言いたいのかを考えつくのが普通である。しかし、私の当時は議論で使われてている言語のその構造は理解できても、それが、何を意図した発言なのか、そっから先にすすまない。つまり、内容の本質が、ほとんど理解できなかった。 いうなれば、ソースコードをASTにする過程はなんとか理解できるのだが、そのASTをどのように処理系で解釈するのかということが、まったく全くわからない。要するに処理系が完全になくなっていたのである。困った。じゃあ、どうしたか。 私は、議論中に出てくる単語とその単語が出てくる場合に、よく出てくる言葉はなんらか関係があるのではないかという仮説を元に、関連する単語の関連を議論の後でグラフ化して書きとめておいた。たとえば、「戦略」という言葉をやたら使う人は、一般的に「戦略の具体化」や「進め方」といった言葉をよく使う。どうもその二つは関係のある概念らしいというこがこれでわかるのである。もちろん、単なる「相関関係」なのであるが。つまり、各単語に「相関関係があるらしい」ことがわかるのだが、因果関係やセマンティックな意味での関係がわからない。だから、「戦略」をつくれといわれたら、なんだかわからないけど、「戦略マップ」とか「戦略実行の勧め方」っていわれる何かを作らねばならないことは理解した。何とかして、そのための安直な方法を本で調べて、なんとかつくってみた。いうなれば、セマンティティックを考えずに、XMLスキーマに遵守しているかだけを基準として、文書を作成する。そうやってすべてをこなすのが限界だった。もちろん、上司の人から見ると何じゃこりゃというものだったに違いない。本当に上司やまわりに迷惑をかけた。
 いまエクセグランをやめてデパゲンを常用している。その結果、すっかり、物事の意味の関連性、因果関係の関連、物事を進めるために必要な整理が、ある程度復活してきた。(ある程度ね。周りの人のレベルには全然到達できない。っていうかそれは元々の話)なので、著しく気分がいい。
 ただ、この経験から得たものがある。「アルジャーノンに花束」は、急に賢くなった(そして元に戻った)人の悲劇を記述している。しかし、突然、何もわからなくなった時の驚きは結構得がたい。そのときに自分はどうすべきか、あきらめるべきなのか、改善する(常にメモする、関係性を少しでも可視化する)、他人に甘えてなんとかする。最近少し「いろいろ抽象的な議論をすることよいことなのか、特に目的のない議論の意義は、みんなの本当の幸せとは何なのか?そして本来の個々の人生の目的はなんだろうあ、いろいろな精神的な病気、たとえば"うつ病"とかでつらい気持ちの人の気持ちって、もしかしたらこういうものなのか(本当に悩んでいる人に失礼かもしれないけど)」ちょっとわかった気がする。いろいろ、この半年ぐらい、かなり悩んだ(考える力なんてなかったから単に悩んだ)が、デパゲンで多少復活したので、ちょっとまた考えたい。

っていうか、NHL07での勝手にキーパーが上がってしまう問題が俺の最大の問題であることには変わらない。今EAsportsに怒りのメールを書いてはいるが。