記事『「電子メールですらもう古い」、Web 2.0世代の仕事術は。』から学ぶこと

「電子メールですらもう古い」、Web 2.0世代の仕事術は

「彼らにとっては電子メールですら古い。ファクシミリダイアルアップと同じだ」。米IDCのシニアバイスプレジデントフランク・ジェンズ(Franc Gens)氏は“第3世代ワーカー”の登場をこう説明する。コンピュータなしで仕事をしていた世代が第1世代で、PCを使って仕事をしている世代が第2世代。そして第3世代はWeb 2.0の次世代コミュニケーションを仕事に活用する。

ではじまるこの記事
この記事を元ネタにしたblogを書くであろう人の気持ちをこの記事に求めてみる。/.とか2chの一部の人がいいそうな観点を集めてみた。

  • 第一世代と第二世代、第二世代と第三世代で差異を捉えるための元になるモデルの観点が違うのでいきなり混乱(前者はPCの存在が有無のみでモデル化している、一方、後者は、何を仕事を援助するツールとして利用しているかの観点でモデル化している)
  • 「仕事の仕方を援助するツール」レベルの差異で「世代」というフェーズ区切りすることの説得力のなさに憤慨
  • さらにいえば、第三世代の人になるには電子メールを使っちゃいけないのかと思う人が続出しそうな、安易にフェーズで事象やそれに付随するモノを分類してしまう古代ギリシャ哲学者達が命をかけて考えてきた「分類とは」に対する驚くような敬意のなさ
  • 同様に、ツール(≒何かの仕事のやり方を支援する何かの総体)の導入が、仕事そのものを変化させるということをpremiseとしている浅はかさに眩暈
  • 第一段落の主張(“第3世代ワーカー”の登場)を裏付ける証拠が以降の文章に一切ないことへの読み終わった後の怒り
  • 「ブログやSNSを導入した企業が増加したこと」が『「多くの企業に付加価値をもたらす」というジェンズ氏の主張』を補強する例になる、と思っている記者の頭の中への同情。推論として間違っているのは明らかであるが、それ以上に、「効果を測定する」という発想が根本的にかけている人の論理展開としか思えない驚き
  • 結局、「Web 2.0世代の仕事術は」というタイトルの問い、および当然想起される疑問としての「その仕事術は、どのような付加価値を与えてくれるのか」に対する、ジェンズ氏の主張も記者の見解もまったくない点。せめて、例示による説明ぐらいあればいいのにと思う暖かいまなざし
  • 一般的に主張をする時はその際の予想される反対意見をあげて、それに対する反論を主張すべきであるという論争の基本が抜けている書きっぱなしジャーマンの爽快感
  • そして、真骨頂は最後の段落のどうしようもない脱力感。
    • ツールをいれれば、なんかしらんがが仕事の質が良くなるという日経アソシエ的発想のもとの問いかけ(="では職場で使えるWeb 2.0系サービスの条件とは何だろうか?")という「なんにでも使えるが何の情報も得られない典型的な質問」しかできないことが物語る、質問者たちの普段の雑務作業に追われて、まともな質問を考える余裕がないお疲れの様子への同情
    • ジェンズ氏も、問いかけのくだらなさに辟易したと思われる、具体性もなくどうにともとれる回答、「条件は一般の企業向けシステムとほぼ同じだ」。「一般の企業向けシステム」と企業が使うすべてのシステムをあっさり抽象化し、その抽象化されるシステムに、同じような特性があるという前提で成り立つ回答を、多分ものすごい説得力のある顔とボディ・ランゲイジでする西洋人への畏怖
    • 「条件は一般の企業向けシステムとほぼ同じだ」というジェンズ氏の主張に対する、記者の「シンプルで低コスト」という当たり前すぎる"必要条件”の説明と、ツールの導入だけがコストであり、以降、ツールの機能を常に保持していることを担保するためのいわゆる保守運用や、そのツールが生むはずである価値を常に維持するための人間・組織系の活動に一切コストがかからないという発想が見え隠れする不安から、この記者はブログやSNSが、3色ボールペンとかPosItの横で100円ショップで売られるような種類のものと思っているのではないかという不安
    • さらに「より素早く使えてその価値を得られる」という、導入して計測しなければ、導入の条件とするための基準が取れないであろう項目を「導入すべきサービスの条件」という問いに対する回答であると書いてしまう潔さに対する文系な人へのある種の尊敬のまなざし
  • だいたい、手に見えないボールを持っているかのような人の発言には気をつけろの法則通りの写真。

というわけだ。で、このあげつらいは全くの前置き。ジェンス氏、記者の方、ネタにしてすみません
 多分、あなたが、この記事のような新しいツールを導入しましょう!みたいなな話を会社とかの審議でパワポで説明したとする。すると、上記のような質問が噴出して、おとといきやがれだろう。で、結局あなたが次にすることは、このような質問自身が出ないようにするためにする短絡的、直球的修正作業だ。で、その修正が終わって、まあ質問はでないパワポになったとする。するとツールお導入が決まるかもしれない。よかった。本当によかったか?もう少しメタな観点で言うと、こんな重箱の隅をつつくような質問(一部は根本的なのだが)に対する直接的なパワポの修正は、本当に会社の利益につながるコストなのかいな。もっと、多少は目の前にある説明の質を高める作業に集中するのではなく、ある程度のレベルに達した資料になったら、そういう説明資料の完璧さの追求はやめて、その主張の内容から、さらに会社の価値をあげることをするにはどうするかという観点で議論を進めようという発想で物事を考えれるようにしないといけないよなあ。
 上記のようにいくらでも重箱の隅をつつけることが証左であるように、最近、明らかに重箱の隅をつつく観点がこびりついてきた自分がすごいヤダ。自分が何かを書く時も、逆に誰かの資料を見る時も 観点がこんな観点。いいのかこれで。会社に入って最初のうちは新しい何かを考えることばかりだったけど。何が変わってしまったんだろうか。