研究者としての評価

 今日は癲癇の治療対策決定のために予約を入れた聖路加病院に4時から、と思ったら会社を出たのが5時過ぎで今日の診療はすべて終了したとのこと。予約の取りなおし。むかついたので、聖路加タワーの和幸でひれかつご膳をキャベツ2回おかわりで食べた。楽しみにしていたホッケーも行く気がなくなって行かず。なんか久しぶりに落ち込んだ日だったのでビールを500ml飲みくだらないバラエティを見る。いわゆるダメな日だが、2か月に一回ぐらいいいだろう。すでに気持は良くなっているし。
 さて、それはいいのだが、今日思ったこと。最近、成果主義になったからであろか、上司の評価を気にしている人が多いと思う。もちろんそういう人を部下や周りに持っている人はそれに対してサポートが必要であると思う。
 けどね、自分の価値観で言わせてもらうと、はっきりいって、研究者、および研究を生業としてコストセンターで働かせてもらっている人間が、上司の評価でしか仕事のモティベーションがわかないような状況であること自身が研究者やその研究組織として問題だと思うぞ。 強烈にやりたいことがあって、それをやって外部的に評価が後から付いてきて、それに対して会社の評価も知らない間についてくる。そういうものじゃないのか。
 なのに、評価に不満があるという声に対する対策として短絡的に評価の公正さを高める動きになる。で、お前たちは評価工学でも研究したいのかというほど評価の仕組みを厳密にきめようという方向に一般的に行きがちだが、それは大概失敗するし、そもそも対策が表面的ではないか。

自分も癲癇になって頻繁に性格や能力や価値観が変わっていくようになって以降、人は様々な経験、スキル、価値観などを持っており、それ(特に社会的弱者になる特性を持っている人たち)に寛容であるべきということをわかってその上で様々な行動をしているつもりではあるが、そういう多様性を認めることと、「自分が」、その様々な多様性に影響を受けて価値観なりを変えてしまうことは別のことだということを強く最近感じている。

「不機嫌な職場」がマクロな観点で組織の問題を分析していることに比較すると、この本はミクロな人間関係や組織目標、意志決定機構などから問題を分析している。最初の方が面白い。