英語は手段ではない、目的だ。

 最近、目標を上司などの周りに敢えて多少力強く明確に宣言して、自分を追い込むことにより、自身の目標管理をしようとしている。亀田兄弟もモハメド・アリも格闘家は皆、そのように強気な発言で自分をわざと追い込んで勝利を呼び込んでいるらしい。それをまねしたものだ。

 そこで、あえて言おう。 英語力に関する目標だ。現在、TOEICの最高点は845。これを今年度に900以上にしてやる。このあたりの領域は努力に対して対数関係でしかスコアが伸びないので、かなり無茶。特に、受験英語な俺は、ほとんどリスニングでスコアを落としているので、とにかく今後聞きまくるのみだ。4歳から6歳ぐらいの時にアメリカで過ごした甥っ子のマサに明らかに負けているリスニング能力を、この年から高められるのか。まあ、今年は英語をしゃべる人と仕事をするので、なんとかなるかもしれない。

 そんなわけで、リスニングを中心に英語を勉強している。ただ、昨日もとある人に言われたのは、「英語力の向上は、あくまで手段であって、目的ではない、優先度は本来の仕事、つまり今の俺の場合は研究の中身だろ」ってことだ。
 果たして、そうだろうか。実際、通常全くの正論であることに何ら異存はない。しかしだ。ソフトウェア工学に携わるものとしてはちょっと異を唱えたい。リスニングとは関係ないが、日本語を英訳するという作業は、ある種のモデリングでないであろうか。 あいまいな言語仕様で発注者の背景知識を激しく前提とした要求(つまり、「あいまいな、日本語という言語仕様」と「ほぼ単一文化であることが前提で成立するハイコンテキストな情報提供形態」)を、nativeでないがゆえに、知っている単語や成句が少ないからこそ半形式的仕様であり、かつ言葉の意味(要するにセマンティクス)とwell-formedな文章の構造(要するに、英文法)が明確に定義されている*1「英語」という仕様言語で表すという作業は、モデリングそのもの*2だと思う。
 つまり、英訳という作業はソフトウェア工学の核となる概念であるモデリングという作業そのものをやっているのだ。だから、英語をうまくなる努力は、ソフトウェア工学そのものの作業をやっているに等しい。単なる手段と思って甘く見る人はダメだと思う。
 実際、日本語を英語に訳そうとした瞬間に、その日本語の持つ明確な意味を捉え、さらに辞書と英文法書、例文集などをにらめっこしながら、出来の良し悪しはあれ、少なくとも自分の中では、英語なる仕様で書かれた、「明確に定義され、あいまいな解釈を許さない」文章が出来上がっているはずだ。これをモデリングといわずなんと呼ぶのか聞きたいぐらいだ。
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 というわけでというか、というわけでないというか、強引にまとめると、まあまあ今年は英語力向上も一つの目標としてがんばりますわということ。

*1:実際は、「そう思っている」だけではあるが

*2:通常、積極的な抽象化をしないという意味では、単なる形式化であるともいえるが