メタファと反例とホワイトボード

何か新しいことをみんなで考えたい、作り出したいそういう時に…

メタファ

 自分は抽象的な概念のハンドリングが苦手なので、メタファによる説明をよく使う。メタファは、抽象的な概念を、伝えたい相手が理解できる具体的なモノやコトを用いて説明することによって、その概念を相手に想起させ理解してもらう一つの手法であると思っている。つまり、これは自分が抽象的な概念をうまく説明する能力がない、そして相手と自分で理解できる具体世界(いわゆる'ドメイン')が異なる場合に用いられ、かつ有効であるということになる。さらにいえば、意外な具体世界で表現された抽象概念は結構面白く(たとえば、さおだけ屋の本とか)印象に残るので、具体世界を共有する相手に対してでもプレゼンなどで用いることが推奨される場合がある。
 ただ、目的である抽象的概念を相手に想起させ、理解してもらうということができそうにない場合、非常に無駄な手法である。相手がメタファで表現された具体世界での特殊性に起因する疑問を質問し始めたら危険な兆候である。絶対に本来の目的である抽象概念の理解はなされない。そのメタファでの説明はやめたほうがいい。別の具体世界に切り替えるか、なんとか抽象的な概念のまま説明すべき。

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

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さおだけ屋はなぜ潰れたのか?

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潰れないのはさおだけ屋だけじゃなかった (宝島社新書)

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↑ 後ろ二冊の便乗感が、「なんのためらいもなく他人のギャグをぱくるネタ」のタムケンみたいで好きだ。

反例

 一方、相手の抽象的な主張にいまいち論理的に反論できない場合。具体世界を提示し、その具体世界においては確実におかしいということが互いで明白な反例をあげるというやり方がある*1。 これは、提示した具体世界での反例のおかしさをまず認識してもらい、それにより、その抽象的な主張の矛盾や論理的アナを相手に自発的に気づいてもらうという、かなり相手に頭を使うことを要求させてしまう逃げなやり方である。
 ただ、これも相手が気づいてくれなさそうなら、時間が無駄な手法である。 これもやはり、その反例が成立するための前提とした具体世界の特殊性に起因した反論をされると危険な兆候である。そうなったら、次の反例->その反例に特化した反論の繰り返しになってしまい、無限ループにはまる。こういう場合も、反例を使うのはあきらめて、自分の頭で必死に考えて、相手の抽象的な主張に論理的に反論するしかない。

論理学はいつものようにこの本たちでどうぞ

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

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論理学

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ホワイトボード

 そんなことよりホワイトボードが最強らしい(出展忘れた)。例えば、机をはさんで紙資料をレビューという形と比較して、みんなホワイトボードを向いて、一つのホワイトボードに書かれた成果物を洗練していくという形式にすると、互いの主張の勝ち負けを決めるようなディベートチックにならず、「共に」創造していこうという気持ちが強くなって、創造的な作業が求められる状況ではいいアイデアが出るそうな。
 刑事と容疑者の間でも、取調室で対面していい争ったりカツ丼頼んだりするのではなく、これからはホワイトボードを使って互いの主張を書いていくようにすると真実に近づくのではないかな。

とか考える今日この頃は季節の変わり目で風邪を引きやすいですが、皆さんうがいのほうよろしくお願いします。(←最近、各所でやたらお願い事ばかりしているが、メールの最後に無責任かつ心のこもっていない「よろしくお願いします」を付け加える自分がすげえヤダ。もっと心のこもったお願いの仕方を実践したい)

*1:反例を一個あげれば完全に否定可能なのは、「論理学的な意味で全称文である文が真である」という主張に対してだけであり、普通、そのような完璧な全称文について話し合うことは現実世界ではあまりない