「服部 幸應は医学博士である」ことの意味

 料理番組に良く出てくる服部 幸應は医学博士であることを知っているだろうか。実は、彼は料理の専門家というよりは、栄養学が本来専門なのであろう。実際、以前「料理の鉄人」で道場六三郎と対決したことがある。その時は、岸朝子も「おいしゅうございました」と言ったかどうかも怪しいもので、道場に大差で敗れていた。つまり、彼は、本来料理人として、料理の鉄人に出てはいけない人なのである。この人はあくまでも評論家であり、料理人としては「普通の人の代表」レベルであろう。
 一方、この服部医学博士、つまり服部先生は、服部栄養専門学校の校長でもある。この学校はいろいろなコースがあるわけであるが、料理人を育てるコースが存在する。おそらく、このコースに行けば、俺では無理としても普通の人ならそれなりの料理人になってどこかのレストランに就職できるような人にすることが出来る体系化されたカリキュラムが存在するに違いない。だからこそ、この学校は成り立っているわけで、服部先生もいろいろなところで活躍ができるわけだ。
 ところで、この学校で道場六三郎を養成することは可能であろう?どうなんだろうか、あまり服部栄養専門学校出身のカリスマシェフって聞いたことがない。なぜだろうかはわからない。少なくとも、この学校ではそこそこの人材をそれなりのレベルに上げること体系的に行うことが主目的であるというのが妥当であろう。
 じゃあ、例えば道場さんが道場栄養専門学校を作ればよいのであろうか?たとえば、道場六三郎が知恵を絞って自分の料理のレシピを書いて教え、また、食材だけを教えられて、その場で客を満足させる料理が作れる手順を教える学校を作るのである。*1いや、そりゃ無理だろうと普通思う。なぜなら、料理はある一定のレベルを超えるとアートであろうからという理由からである。いわゆるアートといわれる分野で体系的に天才を生んでいるという話は聞いたことがない。それは音楽にしろ、絵画にしろである。アートは教えることが出来ない。生まれ持った才能が非常にウェイトの高いものであると思う。道場六三郎は天才だろうが、天才だからゆえ、そして対象がアートだからゆえ、体系化して教えるとが出来ないのである。
 ここまで書くと話の展開が予想できると思われるが、翻ってソフトウェアの開発についてである。これも上の方のレベルは明らかにアートだと信じている。例えば、4人月かかっても全く修正が出来なかった性能の問題が、とある人に1,2時間見てもらっただけで、解決した場面を見たことがある。こういうレベルの人と普通の人を一緒にするというのが無理な話で、このレベルの人はソフトウェア開発というアートでの天才である。統計的にもベームか誰かが、人によって生産性が30倍ぐらい違うとかいう結果を出しているはずだ*2
 ところでソフトウェア工学というものは、ソフトウェア開発の生産性や品質を向上する方法を体系的に構築することを研究する学問である。上記のメタファを踏まえて疑問を提示するならば、現状に対して二つの疑問が存在する。
 一点目は、向上する対象ドメインに対する疑問である。ソフトウェア工学が向上させようとしているのは、天才向けなのであろうか、それとも普通の人向けなのであろうか。少ない経験で言えば、少なくとも最近のソフトウェア工学の分野は天才向けを対象にしようとしている気がしてならない。XPなどは代表的な例だと思っている。しかし、アートであるならば、体系化して、誰にでも使えるようにということ自身がムリな話であって、天才がちょこちょこと書いたレシピが精一杯なのではないであろうか?いくらそのレシピを見ても作ってみても普通の人は全然使えないのである。必要性と効率性で考えれば体系的に生産性や品質を上げてしかるべきなのは普通の人である。であるから、対象ドメインとして、普通の人向けのソフトウェア工学というものを目指せないであろうか?たとえるなら、ソフトウェア開発における服部栄養専門学校のカリキュラムを作ることが必要なのではないであろうか?
 二点目はソフトウェア工学を構築する人に対する疑問である。はっきり言って、私の知っている限りソフトウェア工学に携わっている人や、私の周りにいる人は、開発に関して天才的な人が多い。ほっておくとOSなんか一人で作ってしまいそうな人ばかりである。この人たちの正しいと思う方法で、普通の人用の開発方法論の体系化はできるのであろうか。たとえるなら、道場六三郎服部栄養専門学校は作れるのであろうか。道場六三郎に俺のようにジャガイモの皮すらをまともに向けない人が想像できるのであろうか?逆に「料理の鉄人」でこてんぱんにやられた「普通の人の代表」の服部先生だからこそ服部栄養専門学校は作れるのではないであろうか。
 このように書いてしまうと疑問だけで終わってしまい悲しいので、どうすればよいのか。はっきりした答えは、正直よくはわからない。けど、とにかく天才的な人がレシピを公開し、皆がそれを試し、詳細化していくことを地道にやることではないであろうか。つまり、天才的な人は論文を書いたり、書いたコードを公開したり。普通の人はそれを必死に真似して試す。そしてようやく天才的な人の方式の少しを学び、いずれ体系化できるかもしれないところは、ちょっと偉くなった普通の人が体系化していくのである。これを例えば「要するに技術のデスバレーってやつか」とかそれっぽい言葉で済ますことは簡単である。実際こうすることが重要かもってことは、長くこの業界にいる人は当たり前すぎることかもしれない。けど、個人的には、そこを自分の思考の中で意識的にわかった気がする。
 可能かどうかは別として、今、自分が置かれた立場は、道場六三郎になってレシピを1年で1件作ることである。まあ、砂利場ゼロ三郎ぐらいが関の山だろうけど。

アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション [DVD]

*1:料理の鉄人」が本当にその場で初めて食材を教えられていたかは疑問であるが

*2:一般的にアートは定量的に比較できるものではないという意見もあると思うが、それはおいとく