おじいさんと私

 当たり前だが自分にはおじいさんがいる。過去に一人で東京から京都に帰ったことがある。その時、新幹線の京都駅で待ってくれていたのがうちのおじいさんだ。ちょうど、自分が乗っていた席のまん前の窓でニコニコして待ってくれていたのを覚えている。その後、「あさしお」という気動車の特急の生まれた初めてのったグリーン車でサバ寿司を食べた記憶がはっきり残っている。はっきり残っている記憶のもっとも古いものがこの記憶かもしれない

 おじいさんはとにかく優しかった。おじいさんは地元の校長先生でまあ、名士だった。ふんぞりかえっているのが仕事のはずなのに、俺には本当にやさしかった。俺が何をしても、「おまえは偉い、お菓子をあげよう。今日の夕食は牛肉だ」と。そして、今から思えば田舎でしか手に入らないあまりおいしいとはいえな牛肉を必ず食べさせてくれた。これがうれしくて自分はつまらないことでもおじいさんに報告して牛肉を食べた。今、自分の甥が同じような感じで自分に報告してくることを見ると大変ほほえましい。とにかく、おじいさんはいつもほめてくれて、お菓子をくれたものだ。これは自分が大学に入った頃までまったく変わらなかった。

 そうはいっても、おじいさんだ。時がたてば夕暮れに向かう宿命がある。おじいさんがなくなる3週間前でぐらいであろうか、俺は大学院生だった頃だったと思うが、癌でいずれ終わりがくることがわかっているおじいさんと病院で対面した。一目見て、それ以上みれなかった。個室の唯一の窓をみながら遠くの山々の緑を必死に見て涙が出てくるのを抑えた。痛くもないのに涙が出るのは、「さよならドラえもん」を小学校の時に見て以来だよ。

とにかく、最初に対面した以上は見ずに病室を出た。父と一緒にいったはずだが、父も私も何の意味もない「人はいずれ死ぬものだ」という一般論を語り、極力おじいさんの死という具体的な話題に触れずにで車で帰った。互いにおじいさんの死を、父からしてみれば自分の父の死を認めたくなかったのであろう。

そうして2,3週間でおじいさんはなくなった。私は東京から急いで駆けつけた。駅で喪服を着ているだけで、おじいさんの名前がタクシーの運転手からでた。そして、タクシーの運転手は何も言わずとも葬式会場である自宅に連れて行ってくれた。まあ、それぐらい有名な人だったんだ、あのおじいさんは。その日はたまたまアイルトンセナの死んだ日と同じだった。ただ、悲しかった。当日は、雨がちょっと降ったがそれは涙雨というものであろう。


 もう、おじいさんが亡くなってどれぐらいたつだろう。今でも本当につらい時。思い出すのは、あのおじいさんだ。確かに今俺は大したことをしていない。しかし、俺は自分の中で精一杯がんばっていると思っている時がある、そういう時。おじいさんが思いに出てくる。

 おじいさんに今会えたら、絶対にこう言ってくれるだろう


  「おまえは偉い、お菓子をあげよう。今日の夕食は牛肉だ」


と。