ゆとり教育とcalculus

 久しぶりに江戸川を渡る。普段隅田川しか見ていない俺は江戸川の広さに驚嘆してしまった。この勢いだと利根川とかどうなるんだろうか。ところで、江戸川は南行徳から茅場町まで東西線に乗って渡ったのだが、なんぼ駅止まるねん。大阪ぐらいまでいったのかと思ったぞ。最近は、もう電車は5駅止まるのが限界だ。だいたい、駅が多すぎる。この前、都営浅草線にのってたのだが、成田空港から京急の終点までの路線図が書いてあって暇だったから数かぞえていたら、成田から三崎口まで76駅ある。なんじゃそりゃ。絶対誰も覚えてないだろうこれ。また、しらんうちに半蔵門線がなんかどこだかわからない北の遠いところまで行っている。これ、青函トンネル越えてないか、大丈夫か?とまあ、最近のあまりにも狭い活動領域にちょっと反省。以上よろしくお願いします。
 さて、

マッサージなら整骨院へ行け

どうも背筋が上下左右に曲がっている気がしていたので、近くの整骨院なるものに行って骨を矯正してもらうことにみた。昔、タイムジョッキーとかで、骨をゴキゴキやってものすごい痛いイメージがあるあれだ。 で、行ってみた。すると、矯正する以前にものすごい肩こりと眼精疲労になるような筋肉の張りがあるのでそれを直してからじゃないと矯正できないと言われて、全身をマッサージ、ストレッチしてもらった後に、背骨と骨盤の矯正をしてもらった。 おかげでなんか体がすごいすっきりした。こりゃいいや。

 で、これだけやってもらって40分ぐらいでたったの880円。驚いた。 そりゃさ、風俗方のマッサージじゃないのだから安いに決まっているのだが、たとえば、Body Factoryとかで、30分マッサージしてもらったら4000円ぐらい取られる。おまけに整骨院の人のほうが男性で力もあるし明らかにうまい。おまけに骨の矯正もできる。 こりゃ絶対整骨院だ。なんで、こんな安いんだ?あ、そうか。これって健康保険が利くんだよな。3割か。どうりで、老年の方が多いと思った。というわけで、マッサージしてもらいたかったら整骨院に行きましょう。アロマによるリフレクソロジーとかはやってくれないけど。

ゆとり教育とcalculus

 自分が大人をやっているうちに世間の子供界はゆとり教育だったらしい。確かに、この前、甥の小学3,4年の教科書の薄さにびっくりした。これ一ヶ月でおわるんちゃうかって感じの量。で、量だけではなくて教え方も変わっている。姪が今7+8=15とかいうような一桁と一桁を足して1xになるような計算を勉強している。で、その計算の仕方として教わっているものが面白い。これは甥も同じだったようなので、少なくともその小学校ではこのやり方で統一されているはずだ。 姪の説明を聞いていると、6+8のような計算は以下のようにするようだ。一見ゆとり過ぎ。

  1. 二つの数の大きい数を選択する。この場合は8
  2. 選択された数を5と余りに分ける。この場合は5と3
  3. 選択されなかった数(この場合は6)を、先ほどの余り(3)と足して5になる数字と残りに分ける。この場合は2と4。
  4. 5が二つある(最初の5,次に作った3+2)ことを確認したら1と書く。
  5. で残った数(この場合は4)をその右に書く
  6. 結果的に'14'と書かれている。つまり6+8=14

 なんかものすごく七面倒なやり方だが、何の意味があるのだろうかと考えた。で、ひとつの仮説なのだが、基本的に1) 「桁」の概念はない 2) 一桁の数つまり1から9の数を構成物とし足し算と引き算に対して閉包、という条件でこのような繰り上がる計算を機械的に行えるためのアルゴリズムなのではないであろうか。

 もちろん、桁の概念がないのに'14'という「文字列」を得ることに何の意味があるのかといわれればそのとおりなのだが、逆に言えば意味のない操作、つまり構文操作のみによって、最終的には正しい(意味の解釈が明確である人にとって)14という「数字」を得ることができるのである。こう考えると、このやり方は、意味を考えずに記号を使った計算のみにより推論を行う方法を表す「計算法(calculus)」という数学の基礎的かつ重要な手法をサブリミナルに教えているのではないか。 また、このような意味抜きのアルゴリズムを考えることは、手続き型言語でプログラミングをする時の考え方と近いという意味でも重要である。というわけで、実はゆとり教育といいながら非常に高度なことを暗示的に教えていることがわかった。 わかったといいつつもたぶんぜんぜんこんなおおげさな意味はないと思う。甥もただ面倒くさいって言ってたし。

 ゆとり教育ってのが知識詰め込み偏重のアンチテーゼであるのだとしたら、個人的にはいいことだと思う。けど最近思うのだが、思考への興味や努力する力や目標を持つ意志や個性に価値を持ち続ける強さとかを「教える」というのは、知識を教えるよりぜんぜん難しいことなんだよね。金八先生ぐらいじゃないとできないでしょ。なぜなら、優秀な先人たちが知恵を絞ってそれこそ意味はおいておいても覚えておいて損はない情報を構造的に整理にしたものが「知識体系」なんだから、それを教える(というか伝える)のが一番簡単なんだよ。結局、ゆとり教育で余った時間を使って子供がよりよい人生を送るための何かを教える能力が教える側になかったんだな。