人はなぜ謝るのか。っていうか柳沢は早く謝れ。

 柳沢大臣の辞任が要求されている。コンテキストを無視すると、彼は「女性は子どもを産む機械」といった人ということだ。当たり前だが、そう言われて気分のいい女性はいないであろう。しかし、この発言は、大臣としての力量が問われる発言でなく*1、人間として問題があるということであろう。なら、大臣という役職を辞めさせてもしょうがなくて、議員自身を自らやめるように勧告するのが筋じゃないの?と思う。私自身はコンテキストを捕らえるとまったく辞めさせる必要なぞないと思っている。はっきりいって、この問題で国会をとめることは、日本という国の価値を高めるための施策としてどれほど意味があるのか論理的、定量的な試算がなされているのだろうか?国政に携わっているなら価値観は国の価値をいかに高めるかであろう。それに対する答えを国会議員とかいうやつらは持っているのか。絶対ないと思う。
 ところで、人はなぜ謝るのか。あまりに当たり前すぎて考えていなかった。例えば他人と待ち合わせていて遅刻した場合。普通、人は謝る。しかし、ちょっと考えると謝ってもらっても、何らかのプロセスを両者で実行しているモデルで考えると、「相手側の遅刻によってジョインのタイミングが遅れてしまったことによる、その後のプロセスの時間的遅延」という課題はなんら解決しない。よって、何の意味があるのか。謝ってもしょうがないじゃん。 私と過去に付き合っていた彼女は恐ろしく遅刻に対して敷居が低い二人であり、携帯電話がなければおそらく五年に一回ぐらいしか会えなかったであろうぐらいであった。だからなのか互いに遅刻されて謝らなかった。でも普通の人は謝る。なぜか。ずーと考えていたのだが、わかった。それは「相手が怒っているから」だ、決して謝るという手段は「遅刻という行為が生じさせた課題を解決する直接的な手段」じゃないのだ。強いて言うなら、共同のプロセスを実施している人が怒っていると、その後のその人がかかわるプロセスのパフォーマンスが下がるから、それを元に戻すという意味では謝ることに意味があるだろう。そう考えると、そもそも論として、何らかのプロセスを共同で実施する相手に対していちいち怒るのは、その結果、怒られた相手が謝るというプロセスが余計に増えてしまうという意味で、無駄なのである。 つまり、いちいち怒るなということ。それが難しいような互いに怒るような行動をする同士の場合は、相手が怒るようなことをしたら、「次に自分が怒るようなことをしても、その時に怒らない券」を渡すというルールにしておけば、怒りと謝りの消し込み処理となって効率がいい。その結果、高いパフォーマンスのプロセス処理が維持できるのではないか。そう思いました。
 結局今回の柳沢さんの件も、あの発言から国会をとめるという展開は、日本の価値をあげるという目的のためのプロセスのパフォーマンスを考えれば最悪の展開である。結局、みんな怒っているだけなんだから、とりあえず柳沢大臣も今回は土下座して謝って皆さんの怒りを抑えるということを早くやるべきでしょうね。っていうか、只野係長面白い。さらにいえばかっこいいし。

*1:厚生大臣であるということが問題なのだろうが