人をリソースとしてみるのもいいけど

 マクロに物事を見て分析なり解釈なり,何からの解決をする理論においては,目標達成に用いられるあらゆる何かは「リソース」という言葉で扱われることが多い.典型的には,お金,モノ,人,時間.みんな安易にリソースという言葉でそれを概念化してしまう.しかし,当たり前だが,同じリソースでもフィーチャをちゃんと分析してからでないと危険だ.
 特に,すっきりした理論は危険だ.そういうすっきり理論に,人は惚れ込んでしまう.ただ,具体的なリソースを「リソース」という概念でしかみない理論を使っていると,本来のクラス(ここでいえば,人とか)の持つ,どのようなフィーチャを捨ててしまった理論なのかについて関心がなくなる.
 しかし,ここで捨ててしまった「何か」が実は本来の分析なり解釈なり,何からの解決に重要であるかもしれない場合があるのだ.明確には例示できないが,人を「何らかのものを生産する生産性のみで定義可能なリソース」としてしかみない理論が,結構現実に即さない場合が多いのは明らかだろう.人ってリソースは,ポジティブにもネガティブにもいろいろな感情が大きく影響を与えるリソースなのである.プライドがあり,向上心があり,嫉妬があり,それらが大きく影響するリソースなのである.もちろん人に関して言えば感情の問題だけではない.他にも暗黙知をどうモデル化するか,人のもつ学習能力をどうモデル化するかという問題もある.
 結局,他のリソースでも同様だが,あまりに単純化したリソースとして「リソース」を表現した理論は,そのすっきりさの交換条件として捨てているものがあること,それをいつも忘れないようにして「理論」や「モデル」などを使うべきなのだ.